やきもののふる里 訪ねてみたいやきものの街 ■唐津 シリーズ 第1回
唐津(佐賀) やきもののふる里は
ゆったりとした海辺の静かな城下町
唐津は、その名のとおり「唐の津」、つまり、唐の国へと続く港で、古くから大陸の文化が唐津を経て日本にはいってきたところ。かって、その名を全国へと轟かせた唐津も、現在は往年の史跡を残す静かな海辺の城下町です。 窯元は、唐津市を中心に40軒あまり、お茶わん窯の家系を継ぐ、13代中里太郎右衛門(有田の酒井柿右衛門、鍋島の今泉今右衛門とともに陶磁3右衛門として有名)を筆頭に、伝統を受け継いだ茶陶と日用の和食器が生産されています。
茶道の世界で「一楽、二萩、三唐津」といわれるように、唐津焼の茶器は古くから茶人に好まれた一方、昔から、焼もののことを東日本では「瀬戸もの」といい、西日本では「唐津もの」と呼ばれてきたのは、唐津では、茶器ばかりでなく、庶民の生活に密着した日常雑器が作られ、日本各地に船で運ばれていた証といえます。
唐津焼では、上灰釉が基礎釉としてよく使われています。これは淡色の渋い地色を生む、茶道の「侘び」「寂び」に通じる風合いでもあり、日常の和食器としても料理映えする素朴な色合いでもあるのです。
粗い、ざっくりとした土ものらしい温かさが魅力の唐津焼といっても、いろいろな手法があります。陶工の身近な草木や花鳥などを単純に描いた「絵唐津」、鉄釉とワラ灰釉の掛け合わせで茶陶の名品を残している「朝鮮唐津」、乳白色のワラ灰を掛けて表面に黒や青の斑点状の模様をつくる「斑唐津」などが代表的です。
絵唐津
朝鮮唐津
斑唐津
唐津市の南方、岸岳の南方山麓に古窯があり、ここでは室町時代末期から桃山時代にかけて朝鮮半島から技術が伝わった施釉陶の器(古唐津)が焼かれていたと言われています。しかし、今のような唐津焼になったのは、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のとき、朝鮮から召還された陶工たちによって伝えられたからで、その蹴ロクロと登り窯は、唐津だけでなく、手ロクロと穴窯や半地下式の窯しか知らなかった当時の日本の窯業に大きな転機をもたらしました。 時間がゆるすなら、その原点ともいうべき名護屋城跡を訪れたいものです。東松浦半島の西北端の漁港、呼子(よぶこ)のすぐ近く、唐津市から車で30分ほどのところにあります。文禄・慶長の折、秀吉が九州の諸大名に命じて築かせた城址で、石垣や城道やお堀など、当時の威容を彷彿とさせてくれます。この城の後備衆(のちぞえしゅう)として、あの織部焼の古田織部正が武将の一人として布陣していたとのことです。
唐津は焼きものに加えて町の楽しみも多いところです。唐津市街を流れる松浦川の東岸には、黒松の松林が見事な「虹の松原」が2kmも続きます。この松原からドライブウエイで結ばれる鏡山は、高さは284mながら、山上の展望所から見る唐津の町並みや玄界灘の眺望は素晴らしいものがあります。
唐津のシンボル的存在は何といっても「唐津城」でしょう。あまりに優美な姿から「舞鶴城」とも呼ばれています。5層5階、地下1階の天守閣は、郷土博物館になっていて、藩政時代の思いを馳せる資料や武具、それに唐津焼も展示されています。城内は「舞鶴公園」と呼ばれ桜や藤の名所となっていて、また城下町ならではのお堀端や築地塀などの町並みも残っています。
藩の御用窯として多くの名品を生んだ「お茶わん窯」の窯跡は、唐人町の「中里太郎右衛門陶房」にひっそりと横たわっています。情緒ある佇まいのこの陶房は、太郎右衛門窯の作品の展示販売館と、当代の作品や古唐津を展示する新館が趣きのある渡り廊下でつながっています。
唐津駅前にある「ふるさと会館アルピノ」の2階は唐津焼協同組合の展示場で、わかりやすく窯元ごとに作品を展示してあります。お気に入りの窯元を訪ねるなら、ここで窯元の電話番号入りの地図がもらえます。
いつもは静かな町が激しく燃える日があります。11月にある「唐津おくんち」です。「エイやエイや」という男たちの掛け声とともに1番ヤマの赤獅子はじめ14台のヤマが、細い路地の軒にぶつかりそうになりながら曳山(ひきやま)が引かれます。14台のヤマは普段、唐津神社近くの「曳山展示場」に展示されています。
もうひとつの楽しみは、海の幸、玄界灘で獲れる新鮮な魚料理です。唐津のここある宿やお店では、唐津焼の器に盛り付けた料理をだしてくれますので、やきもの好きの旅人にはこの上なく楽しいものです。