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骨壷の話

最近、ご自分の骨壷を生前に用意しておく風潮が、徐々にですが、出始めています。 シルバー世代がふえたこともありますが、「自分の骨壷作り」をする陶芸教室が賑わっているとのこと。 もともと心ある陶芸家は、頼まれて骨壷の作陶はよくしていました。 たとえば、盗まれていたことで知られる志賀直哉の骨壷は浜田庄司の手によるものでした。

小説家の水上勉さんが作陶された骨壷(蓋に亀を這わせたり、白椿をツマミにしたりしている)は何10万という高値で引く手あまただそうです。 もともと彼は幼少の頃から京都の禅寺に入っていて、葬式や枕経をよく読みにいっていたので、人の死には子供の時分から馴染んでおられたのでしょう、彼の「骨壷の話」(集英社文庫)などには、その思い入れがよく顕れています。

 「なぜに、苦労多い人生を果てたのに、オリジナルな壷に入って楽しまないのか」 「とにもかくにも、私が見た骨壷は簡単きわまりなくて、味気ない白灰一色の代物なのだった。 透明彩釉で艶光りしているも鑑賞にたえなかった。 いつから日本人は骨壷に関心をもたなくなったのか。 なげやりですますようになったのか」 と問いかけています。

確かに「生前から墓の心配はするが、自分の入る骨壷には無関心」の人が多いようです。しかし、よく考えて見ると、人は死ぬとまず入るのは墓ではなく骨壷だということです。 でも、たいていの人は、生前に、そのことを深く考えるのを避けているのか、「終の棲家」は軽んじられていて、あなた任せになっています。 気がついてみたら、葬儀社の用意していた冷たくて無味乾燥な「白い磁器の壷」に入れられていたというのがオチです。

むかし骨壷は、高価なもの

生前に自分の骨壷を作っておくという習慣は、明治以前の我が国ではごく自然に、各地に見られたようです。 もともと土葬の時代、古くは弥生時代の豪族の墓から出土する甕棺(吉野里や福岡・金隅遺跡など)は死後は「土に帰る」という発想からきており、奈良時代では金銀で装飾したものや「奈良三彩蔵骨壷」のように、工芸的にも優れており、高価なものであったようです。

鎌倉時代に各地に「やきものの窯場」ができ、地域ごとに特色ある日常雑器が焼かれる頃には、一般庶民も、温かい「土ものの骨壷」に入ることができたのです。当時は、生前に「自分の骨壷」を作っておくことは縁起がよいとされていました。 今でも、韓国、台湾、沖縄では、長生きの目出度い習慣として、子供が生まれると、その子の骨壷を作り、祖先の霊に長寿を祈るといわれています。

いつから骨壷に無関心に

人生の幕切れに欠くことのできないはずの「終の棲家」の骨壷が、明治以降、軽んじられる結果になったのは、先の水上勉さんの「骨壷の話」によれば、「明治維新の廃藩置県のおり、寺社分離と称して、時の新政府が日本中の寺院を廃し、神道を国教にしてしまった名残り」で、以来、お寺さんは「葬祭事業の忙しさにかまけ、お布施書きや、読経といった儲けることに専念、儲からない祭壇の手配や、骨壷といった細かなことは葬祭業者に任せっきりになってしまった結果」とのことです。

なるほど、お寺さんと葬祭業者との分業という観点からすると、業者としては効率の良い、画一的な「磁器の壷」を用意するのが手っ取り早いわけですが、江戸末期から各地の窯場でも、土ものの陶器から、大量生産を可能にした、コストの安い「磁器製品」へと代わっていったことも無関係とは言えないと思います。

「終の棲家」を用意する

ですから「白い同じ壷」に入れられたくない人は、本当の意味での「終の棲家」として、生前に、自分好みの骨壷を見つけておくとよいでしょう。 最近では、全国の窯場を巡って地元の作家に骨壷を作らせた写真集「骨壷の美」(江戸屋壷店編)なども出版されています。 自分好みの陶芸家に依頼して、生前に骨壷を用意しておき、ふだんは花器などに使っている方も多いと聞きます。

 

やきものクラブ・楽陶