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  楽陶短信   陶芸よもやまばなし   板谷波山の陶芸

   近代芸術の扉を開けた

       板谷波山(いたやはざん)の陶芸   

板谷波山と近代の陶芸

幕末から明治初期にかけて欧米で開催された万国博覧会で高い評価を受けた日本の陶磁器は、明治政府の後押しもあって次々と海外に送り出され、西洋の美術にも少なからず影響を与えました。ところが明治の後半では、旧態依然とした日本の陶磁器のデザインは批判の的となり刷新を迫られていました。そして意匠や釉薬など新たな研究がはじまりますが、この近代陶芸の出発点というべき時期に中心的な役割を果たしたのが板谷波山でした。


波山デビュー作・八手葉花瓶


薄肉彫りで表現・彩磁笹文花瓶

やきものとの出会い

明治5年、茨城県下館市に生まれた板谷波山(本名・嘉七)は、明治22年東京美術学校(現、東京芸術大学)に入学します。波山は専攻過程で陶芸科を希望しますが、当時、陶芸科は創設されておらず、代わりに彫刻科に進みます。

当時の若き校長、岡倉天心との出会いは極めて重要な意味をもっていました。講義の日本美術史、西洋美術史もさることながら、彼が常々いっていた「美術は模倣はいかん、自分の創意でやったものでなければ、本当の自分がでていなければ、芸術でない、独創がなければいかん」ということの具現化が、後々の「創造」と「個性表現」の系譜になっていると思います。彫刻科では高村光雲等に師事し、高度な木彫技術を習得し、それが後の陶芸のうえで独特の浮き彫り文様に表現されていきます。卒業後、開講したての石川県工業学校に彫刻科主任教諭として赴任、後に陶磁器科担当となったときから、本格的な陶磁器の研究に着手します。

この新設校は、西洋の窯業技術を国内でいち早く受容れて応用実験する、最先端の窯業研究を行うところで、ドイツ人技師ワグネルの流れをくむ東京高等工業学校(現、東京工業大学)系の俊英たちがそろっていました。ここでの彼は、西洋の19世紀末に流行したアール・ヌーヴォーや東洋の伝統意匠を踏まえた独創的な図案の構想力を身につけ、西洋で行われていた最新の彩色法の確立に取り組んでいました。それは「釉下絵」といって釉薬の下の素地に直接絵具を沁みこませる手法(葆光彩磁)で、それまで日本の伝統にないものでした。

岡倉天心の弟子として著名な横山大観・下村大観・菱田春草・木村武山などの日本画家も、波山の美術学校時代に机をならべて学んでおり、その芸術的な成果として、大観や春草らは日本において「朦朧体」を残し、波山は陶芸において「葆光彩磁」を完成しました。分野の差こそあれ、作風が極めて類似しているといえます。

革新的な陶芸

明治36年東京・田端に築窯して、陶芸家として歩み始めます。このころから郷里の名山、筑波山からとった号「波山」を用いるようになります。波山が田端に居をかまえたのをきっかけに、鋳金家の香取秀真、彫刻家の吉田三郎らが移り住み、彼らと縁のあった文学者の芥川竜之介や室生犀星などもやってきて、田端は芸術村(文士村)の様相を呈していました。

このころの波山は貧困の鈍底にあったといわれ、窯の築造が資金不足から遅々として進まず、初窯まで2年半近く、作品を世に出せませんでした。彼は東京高等工業学校窯業科の嘱託として教鞭を奮う一方で作陶活動を続けていました。このときの弟子が河井寛治郎であり、濱田庄司であったわけです。


氷裂磁瑞果文花瓶

素描画集から・三宝柑図

陶芸界の頂点へ

初窯のうち3点を日本美術協会展に出品、そのうち1点が近代の美術コレクターとして著名な益田鈍翁に買い上げられるなど、いきなり好成績をあげました。以降数々の展覧会で受賞を重ね、陶芸界での地位を不動のものとしていったのです。支援者(コレクター)には宮内省、住友吉左衛門(住友財閥)、長谷川家(山形銀行)、出光佐三(出光興産)など、デビューは遅かったものの、驚くほどの短期間のうちに波山の陶芸は見事に開花して、陶芸界の寵児となっていきました。

西欧のレベルを超える

波山がデビューした明治30年代は、1900年のパリ万国博覧会で見られたように、アール・ヌーボーが西欧の芸術界を席巻していました。波山の場合、エミール・ガレに見られる自然主義的な表現に近く、生き生きとした感性で動植物が描かれ、単なる西欧の模倣というレベルから抜け出なかった国内の陶芸家たちとは異なり、東京美術学校で修得した彫刻技法や更科デザインなど日本の伝統美を土台に創造され、西洋のレベルを超えた、実に、のびやかで、みずみずしい文様が表現されています。

彩磁葡萄文花瓶 → 


葆光彩磁花卉文壷・敦井美術館蔵


波山の絶作・椿文茶碗

「葆光彩磁」の完成

大正6年の日本美術協会展で波山は葆光彩磁の傑作が、すべての出品の最高位である1等賞金杯に輝き、この作品によって名実ともに日本陶芸界の頂点に立ちました。「葆光」とは、光沢を隠すこと、物の線界をやわらかく、薄く描くことを意味し、独特のマット釉(つや消し釉)を用い、淡い幻想的な色彩を醸し出しました。

その後、これまで排除されてきた文・帝展における美術工芸部門の設立(昭和2年)に象徴的で中心的な役割を果たしました。陶芸家として初の文化勲章受章(重要文化財技術保持者=人間国宝の推薦は辞退)など、近代日本の陶芸界で指導的な役割を演じ、また、その端正で格調高い作品の数々は多くの人を魅了し続けています。

なお、波山は成形の部分はろくろ轆轤職人に任せていました。熟練の技を必要とする轆轤は、自分で挽くよりも、卓越した技の持ち主に任せる方法を選んだのでしょう。担当した現田市松は50年余の歳月を、波山芸術のために滅私で尽くした、「すばらしき明治人」でした。

やきものクラブ・楽陶